テキサス親父日本事務局
  新彊ウィグルの惨劇              2011/12/5 イーサン・グトマン

 

 

  中国北西部地域のような閉鎖的社会で今日一体何が起きているのかを理解するには

 10年、いやもっと昔にさかのぼらねばならない。

 

  ここにひとつの手掛かりがある。それは1991年秋、ある曇った日に広州南部のある丘

 で起こった出来事だ。その日、内科医療のため、小規模の医療チームと若い医師が手術

 用に改造されたバンに乗って孫逸仙大学を出発した。着いたところは 綺麗に地ならしされ

 た場所で、見るとそこには同じようなバンの一隊がいた。車体は綺麗で、白く、外からは

 見えないスモークガラスの窓、そして鮮やかに描かれた赤十字マークも見える。

 

 警察がチーム一行に安全のため車内にいるように命じた。窓から見える物といえば、溝

 が並んでおり、その幾つかは埋まっていたり、掘ったばかりのものもある。

 つまり、ここは何年間も処刑場として使われてきた丘の頂上なのだ。

 

  予定通り処刑される36人の腎臓や角膜、計72セットはその地域の病院に配分され

 ることになる

 

 それぞれのバンには外科医が待機しており、迅速に作業を行う。摘出には15〜30分か

 かり、病院に移送、6時間以内に移植される。これは幻想でも何でもない。

 処刑というものが人の心を荒廃させてしまうのだろうか。

 

  ここ10年間の中国における医療知識の向上により、かつては屑としてしか見なされなか

 った臓器はもはや捨てられることは無くなった。正確には公知とは言えないが、中国の医

 学校では、

 

 よほどへそ曲がりの極悪人は別として犯罪者の多くは最後の償いとして

 自分の臓器をすすんで提供するものと教えていたのだ

 

  第一回の射撃の直後、ヴァンの扉が荒々しく開かれ、制服を脱ぎ棄て白衣をまとった

 二人の男が死体を中に運び入れた。心臓と脚がかすかにピクピクと動いていた。

 その若い医師は弾丸痕が胸の右側にあることを認めた。予想していた通りだ。

 

  第3号死体が仰向けにされてから彼は作業を開始した。死体は40代の漢族の男性だ。

 バンの中にある小さな臓器は儲けの大きい外国人マーケットに供される。医師は腎臓が

 50歳の某中国人男性への移植に適合しているかどうか書類に眼を通していた。

 

 移植がなければこの男性は死んでしまうだろうし、移植があるからこそ彼は奇跡的に病

 院のベッドから起き上がり、あと25年ぐらいは普通の生活をおくることができるのだ。

 もし、中国で抗組織拒否反応の薬が開発され、もっと進歩すれば理論上は肝臓、肺、

 心臓などが取り換えられ、この男性は更にあと10年ないし15年も生き延びることができ

 るかも知れない。

 

   第3号死体には首に紫色した炎症のすじを除いて格段の特徴はなかった。医師は法廷

 での弁論のことを感じ取った。というのは

 

 警察は囚人の首のまわりをワイヤーで巻きつけ、法廷で声を出せないようにする事が

 時々あるのだ

 

 医師は論理的にそう考えた。

 

 おそらく警察は、殺人者、凶悪犯、精神異常者という理由で彼に口をきくことを望んだ

 のではないのだろう。中国の刑罰システムとは、日常使う“ソーセージ練り器”みたいなも

 ので、大々的なスケールで極悪犯罪人を一挙に処刑するのである。この若い医師は臓器

 摘出というものは誤りであることは分かっていた。どんな犯罪であれ、囚人の遺体が安らか

 に永眠すればそれでよいのだ。しかし、自分の外科医としての任務は産科医のそれとどう

 違うのだろうか? 

 

 臓器摘出とは再生であり、生命である。ちょうど抗生物質やステロイドが革命的な進歩だ

 ったと同じように。あるいはと彼思う、おそらくこの男は政治犯だったからこそ法廷で喋ら

 せなかったのではないか

 

  19年後、ヨーロッパのある安全な場所でこの医師はその謎を明らかにしてくれた。

 

 彼は自分の身元を外部に漏らさないよう求めた。実は、中国の医療当局は大部分の臓器

 移植が処刑に由来するものと認めているけれど、中国大陸の医師や亡命中の医師であって

 もそういった外科処置の現実をだれも語らないのだ。それを語るとすれば、避けて通りたい

 問題が国際医療機関にバレてしまうのだ。

 

 その問題とは、中国の処刑率の高さや犯罪人の臓器利用ではなく、中国の宗教信者、政治

 犯に対するシステム的な抹殺なのだ。この医師が自分の家族や職業に悲惨な結末が及ぶ事

 に恐れを抱いているけれど中国に一発喰らわせることには何の恐れもないのだ。

 何となれば、彼は少数民族の生まれなのだ。つまりウイグル族なのだ。

  

   この2年間で接近を試みたウイグル人(両大陸に散らばっている元警察官、医師、元治

 安要員など)は私に断片的な情報を提供してくれた、中にはやや一貫性に欠けた説明もあ

 ったけれど。

 

 彼らは自分たちの職業、家族そして時には生命の危険に晒されるケースもあったことは認

 めている。

 彼らの証言で明らかになったことは、

 

 死体処置によって、単に生きている臓器が高利益の医療需要に応えていることでは

 なく、大虐殺が発生していることなのだ

 

  ウイグル人は内輪では中国の北西部に広がっている自分たちの広大な地域(インド、パキ

 スタン、アフガニスタン、タジキスタン、キルギスタン、カザフスタン、モンゴルに接している)を

 東トルキスタンと呼んでいる。ウィグル族は民族的にはトルコ系であり、東アジア系ではない。

 彼らには少数のキリスト教徒もいるが、殆ど回教徒である。言語は北京よりもタシケントでは

 よく通じる。

 

 一方、“新彊ウイグル自治区”と呼ばれる中国名称は文字通り訳せば”New Frontier”である。

 1949年毛沢東が侵入してきたとき漢民族はその地域の人口の7%しかいなかった

 

 その後、共産党員、兵士、商店主、建設会社などが大量に流れ込んできたので漢民族は今

 やその大半を占める。共産党の試算によれば、新彊は今世紀末までに石油、天然ガスの

 生産量が国でトップになる地域だという。

 

   このような投資を擁護するため中国はウィグル人民族主義者たち(過激な反乱分子や非暴

 力の活動家を問わず)をCIAの手先として以前から見なしてきたのである。だが、9/11以後こ

 ういった陰謀説は記憶の中に閉じ込められ、中国は突如として、今までもそうであったが、ア

 ルカイダ率いるウイグル人テロリストと戦争状態になったのだ。

 

 いかに明白で日和見的な変節であるかはさておき、アメリカの情報機関は中国が対テロ戦争

 に協力し始めたと見てとり、中国の国家治安要員がアンタナモに入ってウイグル人政治犯を

 尋問することを黙認したのだった。

 

  その政治犯らがアルカイダと実際どれだけ結び付いていたかはよく分からないが、基本的な

 事実はこうである。

 

 1990年代、中国が隣国カザフスタンやパキスタンからウィグル人反乱分子養成キャンプを追

 い出した時、ウイグル人の一部はアフガニスタンに逃れ、そこでタリバン兵士となったのだ。

 しかし、ウイグル人自らが自分たちはイスラム原理主義者であると認めているではないか、

 などと中国政府が主張するとすれば、ある事実を提示しよう。私自身、握手を拒否するウイグル

 人女性に出会ったこともなければ私とお酒を飲もうとしないウイグル人男性にもお目にかかった

 ことはない。更に、私のユダヤ的響きを持つ名前に誰もたじろぐ人はいないのだ。

 

 ある酒席の場で、私は地元のウイグル人指導者に対して、たとえば“イスラム人権委員会”の

 ような団体から支援を受けられるかどうか訊いたことがある。(実は、私がかつてこの委員会の

 ロンドン事務局を訪問したときに気付いたことだが、ベールをかぶった女性が男性から手を差し

 伸べて握手を求められたことにたじろいでしまったのだ。そこでは飲酒は厳禁。私のユダヤ系

 の名前自体がそこでは大変なことなのだ。)件のウィグル人指導者は、「そんなことは無用だ」

 と言い放ってそばにあるウオッカの瓶に手を伸ばした。

  

  従って、仮にアメリカの狙いが中国に改善を求めることだとしても、誰がテロリストなのか、

 中国の言い分をまともに信ずるとすれば、まさに共産党の思うつぼにはまることになのだ。

 

   新彊は長い間共産党の不法な実験場にされてきた。1960年代、ノプヌルでの地上核

 実験(その結果、新彊の首都ウルムチではガン患者が急増)から、つい最近ではタリム

 砂漠での世界最大級の強制収容所建設という事例まである

 

 この収容所では5万人のウイグル人、極悪犯罪人、法輪功のメンバーが収容されていると推測

 されている。そして最初の政治犯臓器摘出について言えば、新彊はまさに“グラウンド・ゼロ”

 なのだ。

 

  1989年、ニジャト・アブドレイムが20歳になって間もなく新彊警察学校を卒業し、ウルムチ

 治安局の第一連隊である特別警察隊に入隊した。この部隊は特に共産党への脅威を抑え込

 むための中国人部隊だが、彼は最初のウイグル人採用者のひとりだ。彼は有名な事件などの

 ウイグル人への尋問では警察官として高い評価を得ていた。後年、私がローマ近郊の難民

 キャンプで彼に会った時、痩せて、落ち込んだ様子で何か警戒しているようだった。

 

   ニジャトは、中国人の同僚がいつも自分を監視していることには気づいていたが、彼らから

 好かれるようなイメージを自ら作り上げ、無邪気な笑顔で接していた、と私に説明してくれた。

 

 1994年までに彼は政府秘密部隊のあらゆる部署、例えば拘置所、尋問室、処刑場などに

 回された。

 

 そんな中で、彼は拷問や処刑、レープさえ数多く目撃してきたのだ。彼の好奇心は飽くまで

 職業的興味のたぐいであるが、ある日ひとりの中国人警察官が頭を振りながら処刑から戻っ

 てきた時その同僚に訪ねたことがある。その同僚によると死体の処置は通常通り、つまり

 無用な死体は溝に投げられ、有用な死体のみバンに乗せられるというのだ。

 だが、彼はバンの中から何か男の叫び声を聞いた。

 

  「誰かまだ生きているのでは?」ニジャトはこう訊いた。

 

  「どんな叫び声か?」

 

  「地獄からのようだった」

 

  ニジャトは肩をすくめた。この部隊はさんざんこんないい加減なことをやってきたのだった。

 

  2〜3カ月後、3人の死刑囚が留置所から処刑場へ移送されることになった。ニジャトは

 その中のかなり若い男と親しくなり、その男と並んで歩いて行くと彼は眼を皿のようにして

 ニジャトの方を向いて話しかけてきた。

 

  「何故俺に注射を打ったのだ?」

 

  注射を打ったのはニジャトではなく医務官なのだ。だが、その医務官や法務官らがこのやり

 とりを見ていた。そこでニジャトはすらすらと嘘をついた。

 

  「君に弾が当たってもそれほど苦痛を感じないためだ」

 

  男はかすかに笑った。ニジャトはその表情を決して忘れることはできないだろうと思いつつ

 処刑が終了したあと医務官に訊ねた。

 

  「何故あの男に注射したのですか?」

 

  「ニジャト君、もし他の部署へ移りたいのなら即刻そうしなさい」

 

  「どういう意味ですか?どんな薬を注射したのですか?」

 

  「ニジャト君、君は何か信念を持っているか?」

 

  「はい。貴官は?」

 

  「あれは抗凝血剤だ。ニジャト君、我々はみんな地獄行きだよ」

 

  私はロンドンの非公式のウィグルネットワークを通じて初めてエンバー・トーチに会った。

 ソフトな語り口、ハスキー声、ほとけ様のような男だ。私の第一印象として彼は公共アパート

 に住んでいるごく普通の移住者にすぎなかった。だが、彼には秘密があったのだ。

 

  彼は1995年6月のある火曜日の出来事から話し始めた。当時彼はウルムチ病院の一般

 外科医だった。エンバーは直接の上司である外科長との奇妙な会話を覚えている。

 

  「エンバー君、我々はこれから何かエキサイテイングなことをするのだ。野外で手術を

 したことがあるかね?」

 

  「いいえ。それで私は何をすればいいのですか?」

 

  「車両チームを編成しろ、救急車も出動だ。明日9時、全員、前に集合だ」

 

  翌日の晴れた水曜日、エンバーは2人の助手と1人の麻酔医を率いてバンに乗り込み、

 外科長の車のあとについてウルムチの西方へ出発した。

 

 救急車の中では当初ピクニック気分だったが、一行が西部山岳の警察区域に入りつつ

 あることが分かってしまうとピタリと止んだ。

 

 その区域は政治犯の処刑場だったのだ。急坂で埃っぽい山道につくと外科長の車は

 単独で一行を離れ、そして戻ってきてエンバーに話しかけた。

 

  「発射音を聞いたら車両をこの丘の向こうの方へ回せ」

 

  「何故我々はこんな所へ来たのですか?」

 

  「エンバー君、知りたくなければ何も訊くな」

 

  「知りたいです」

 

  「いや、知ってはいけない」

 

  外科長が車に戻る時、一瞬冷たい視線を彼に投げかけた。エンバーは丘の向こうに

 何か武装警察の施設のようなものを見た。人が動き回っている。民間人だ。

 彼は、その人達は恐らく家族で、遺体の回収と弾薬の支払いをするためにやって来た

 のだろう、と半ば皮肉をこめて一行に話した。

 

 すると一行はくだらない冗談を言いあって緊張をほぐしたりしていた。ついに発射音が

 聞こえた。

 一斉射撃のようだ。車を処刑場へとまわした。

 

  エンバーは外科長の車のあとについて行く際、車内では急に体を動かさないように

 集中していたので外の様子はよく見えなかった。丘のふもとあたりに10体、あるいは

 20体横たわっていたと即座に見てとった。武装警察隊は救急車を見るなり合図を送

 った。

 

  「これだ、これ」

 

  血の浸みこんだ地面に横たわっていたのは30歳代の男で、紺色のマントをまとって

 いた。

 囚人は全員丸坊主だったが、この男だけは長髪だった。

 

  「この男だ、手術をするのは」

 

  「何故この男の手術をするのですか?」とエンバーは抗議した。

 

 男の首の動脈が気になる。

 

  「おいおい、この男は死んでるんだぜ」

 

  エンバーはこわばりながらも反論した。

 

  「違う、死んではいません」

 

  「すぐ手術だ。肝臓と腎臓を摘出しろ。速く、速く」

 

  外科長の指示に従い、チーム一行は救急車に死体を運び入れる。

 

 エンバーは感覚が麻痺するのを覚えた。

 

 着ているものを剥ぎ、手足をテーブルに縛りつけ、死体を切開する。

 なるべく普段通りのやり方で行うよう努めた。殺菌、そして露出は最小限にする、

 切断面をスケッチする。エンバーはいぶかしげに外科長を見やった。彼は言った。

 

  「麻酔は不要。生きてはいない」 

 

  麻酔医はそばで腕を組んで立っているだけだ。まるで無知な農民のようだ、とエンバー

 は思った。

 

 エンバーは怒鳴るように言った。

 

  「何かしたらどうなんだ!」

 

  「一体、何をすればいいんだ。この男はもう意識はない。切開しても反応はないのだ」

 

  いや、反応があったのだ。エンバーがメスを入れた時、男の胸は突然隆起し、再び収縮し

 たのだ。

 

 やや半狂乱になったエンバーは外科長に向き直って言った。

 

  「どれだけ深くメスを入れるのですか?」

 

  「できるだけ広く、深く。今は時間との競争だ」

 

  エンバーは迅速に作業を進めた。鉗子には目もくれず、右手で切り開き、左手で筋肉や

 組織をどかす。腎臓と肝臓をきれいに摘出する時だけ慎重に、ゆっくりと進める。

 

  死体を縫い合わせた時も(内臓の縫い合わせは無意味で、死体の外見さえ整っていれば

 いいのだ)、

 

 この男はまだ生きている、と感じた。“俺は殺人者なんだ”、と心の中で叫んだ。

 

 とてもこの男の顔なんか見れたものではない、丁度殺人者が被害者を見ようとしないのと

 同じ様に。

 

  一行は押し黙ってウルムチへの引き揚げて行った。

 

  木曜日、外科長はエンバーと向かい合って、こう言った。

 

  「きのうはどうだったかね?普段の日と変わらない一日だったね」

 

  エンバーは、「はい、その通りです」と言った。

 

 実は、生きた臓器であれば移植先の体で拒否反応をおこす確率が低いこと、更に胸に

 入った弾丸が(一発目の弾が中でよろよろした場合は別だが)不思議にも麻酔の役を

 果たすということが分かったのはずっと何年も経ってからの事だった。

 

 自分が出来ることはしてあげたのだ。遺族のために死体を綺麗に縫い合わせて

 あげたりもした。

 

 15年後、彼はあの水曜日の出来事を初めて明らかにしたのだった。

 

  さて、ニジャットについて言えば、1996年に初めてすべてを語った。

 

  真夜中、独房の灯りが全部消えた直後のことだ。ニジャトはその時当直の医師と一緒に

 留置所の敷地内の事務所でぶらぶらと時を過ごしていた。会話が途切れた時、ふとその

 医師は、ここに幽霊が出るのではないかと奇妙な声で語りかけてきた。

 

  「夜になるとちょっと変な感じですね」ニジャトが答える。

 

  「どうしてそう思う?」

 

  「だって、余りにも多くの人間がここで殺されたのだから、しかも不正な理由で」

 

   ニジャトは分かっていたのだ。

 

 抗凝血剤、処刑場からの帰りに供される高価な“処刑食”、国に臓器提供をする

 書類にサインするよう死刑囚に説得する私服の職員達。

 

  こういう書類は本ものであるけれど、

 

 死刑後切開されるときはまだ生きているという事実は無視されてしまうのだ。

 

  「ニジャト君、ぼくらは本当に地獄行きだよ」

 

  ニジャトはビールをごくりと飲み込み、ニコリともしなかった。

 

  1997年2月、バハチヤール・シェムシデインは、自分が単なる名前だけの警察官では

 ないかと考えていた。その2年前、彼はグルジャ市の中国治安局に採用され、麻薬取締

 部門に配属された。

 彼にはピッタシだった。というのも背が高く、ハンサムでウイグル人らしい威厳を醸し出し

 ていたからだ。

 

 最終的には、彼はカナダに逃れ、自由を得たのであるが、彼は容易に自分の当初の理想

 主義を思い起こすことができる。つまり当時、自分自身を中国の協力者ではなく、緊急時の

 助っ人だと思っていたのだ。

 

  数年間にわたって、ヘロインがグルジャ市隣接地域からひそかに侵入し、あたかも中世

 の疫病のごとく若きウイグル人たちに襲いかかっていたことがある。バハチヤールは警察

 部内の中でも、中国人ヘロインカルテルが当局から“奨励”されるとは言えないにしても、

 “保護”されていることをいち早く見抜いていた。

 

 彼が採用されたことだって“おとり商法”の類いだったのだ。直接の上司は彼にドラッグ取引

 人を追跡させるのではなく、Mershipのグループ(衛生的な生活、スポーツ、ウィグル音楽や

 舞踊などを奨励するイスラム親睦団体)の調査を命じたのだ。もしそのグループが麻薬の侵

 入に対抗して伝統的なハーブ治療に衣替えすれば、中国当局は国家に対する偽装攻撃と

 見なすのであった。

 

   1997年1月のラマダン前夜のことである。グルジャ市の全警察官―ウィグル人、中国人

 を問わず―に対して突如として銃を“検査”のため差し出すよう命令が下った。約1カ月後、

 武器は返還されたもののバハチヤールの銃は保留されたままだった。彼は銃を管理してい

 る中国人役人のところへ行ってこうたずねた。

 

  「君の銃には問題がある」

 

  「いつそれを解決してもらえるのですか?」

 

  その役人は肩をすぼめ、手元のリストに眼をおとし、顔をあげて瞬きもせずこう言い放った。

 

  「君はそろそろ辞め時だ」

 

  やっとわかった。中国人警察官はみんな銃を持ち、ウイグル人警察官の銃にはみんな

 問題があるのだ、と。

 

  その3日後、理由がわかった。およそ千人のウイグル人がグルジャ市の中心部に集結

 した。

 

 実はその前日、中国当局はMershipグループにいた女性6人(暴行されたとも言われている)、

 イスラムの教師全員、そして会の参加者全員を逮捕したのだ。集結した若い男性らが自分

 たちは武器を帯びていないことを示すためオーバーを抜いてやってきた。

 計画的か否かは分からないが、中国人警察官はそのデモ隊に発砲したのだった

 

   これはグルジャ事件として知られるが犠牲者の数はいまだに不明だ。バハチヤールは、

 警察では死者400人と推定していたと記憶している。だが、彼はその事件を見た訳で

 はない。

 ウィグル人警察官は全員、地元の刑務所に回され、囚人の尋問に当たっており、且つ事件

 の最中、敷地内に閉じ込められていたのだ。

 

 しかし、彼はウィグル人達が群れをなして敷地内に入ってきて、裸にされて雪の中に

 放り出された(ある者は血を流し、またある者は内臓に損傷を受けていた)のを確か

 に見たの

 

 グルジャの主要な医療機関は閉鎖された。中国人特別警察隊は医師10人を逮捕し、

 その医療機関の救急室を破壊してしまった。

 

 4月末には逮捕者が急増し、刑務所は絶望的なほど過密状態になった。そして、

 ウイグル人政治犯は選別され、毎日処刑されたのだ。

 

 4月24日、彼の同僚は8人の政治犯の処刑を目撃した。衝撃的だったのは、特別仕立ての

 バンに乗って臓器摘出の為待機していた医師らの存在だった。

 

  私は、ヨーロッパで、この事件のあとグルジャの大きな病院に勤務したという某看護婦と

 話をしたことがある。執拗に個人情報を明かさないで欲しいという要請を受けた。

 

 そして病院がウィグル人反乱者への治療を禁止されていたと彼女は語ってくれた。

 腕に包帯を巻いたある医師は15年の刑を言い渡され、他の医師は20年だという。

 病院のスタッフは、「もしおまえらが誰かを治療したら、同じ結末になるのだ」と聞かされた

 という。

 

 ウィグル人と中国人の医療スタッフ間の溝は深まるばかりだった。

 

 中国人医師は処方薬を貯め込み、ウィグル人職員には調薬室の鍵を渡さないのだ。

 また、ウィグル人患者は普段服用している半分の薬しかもらえないのだ。

 

 ウィグル人カップルに2番目の子供が生まれた場合は、その出生自体法律違反なの

 だが、産科医はその幼児に注射(抗生物資とされる)を打っていたところを彼女は見

 ていた

 

 彼女は同じ注射が中国人の幼児に打たれる例をひとつも記憶にない。

 3日以内でその子は青白くなって死んでしまうのだった

 中国人スタッフはウィグル人の母に機械的な説明を繰り返すのであった。

 

  「あなたの赤ちゃんは弱すぎてとても薬に耐えられなかったのです」

 

  グルジャ事件後まもなく、ある若いウィグル人反乱者の遺体が陸軍病院から実家に

 戻された。腹部に縫合わせのあとがあったということは、遺体が解剖された証拠である。

 このことが更なる暴動に火を付けた。

 

 その後遺体は包まれ、銃をつきつけられながら埋葬された。それから、中国人兵士らは

 いくつかの墓地(ひとつはウルムチ空港から遠くないところにある)をパトロールするよう

 になったのだ。

 

 看護婦はその6月までに経験したもう一つの事例を語った。それは、ある若いウイグル人

 反乱者が逮捕され、激しい暴行を受けた例である。彼の家族は釈放金を払って息子を解放

 してもらったが、腎臓に損傷があることがわかった。家族はウルムチ陸軍病院に行けと言わ

 れ、そこで病院職員から次のようなことを提示された。

 

 腎臓は3万元(約4,700ドル)で健康な臓器だという。

 

 それはそうだ。その臓器は21歳のウイグル人男性―息子と同じプロフイ―ルではないか

 ―のものなのだ。彼女はその“提供者”とは実際のところ、ある反乱分子だったとわかった。

 

  1977年初夏、新彊の田舎で血液関連の巡回業務をやっていた若いウイグル人医師

 (ムラトと呼んでおく)がウルムチの大きな病院で将来有望な医療分野で身を立てようと

 していた。だが、それから2年後、かれはヨーロッパへの逃避を計画したのだった。

 何年かのち、私は彼と面会することになった。

 

  ある日、ムラトの教官はそーっと彼にこう告げた。5人の中国政府の役人―大物党員―

 が臓器移植のためこの病院に入院したという。教官は彼にある仕事を命じた。

 

 「ウルムチ刑務所へ行ってくれ。刑事犯棟ではなく政治犯棟だ。少量でいいから血液を

 採取し、それぞれ血液型に分類しろ。たったそれだけだ」

 

  「組織適合はどうします?」

 

  「心配は無用。そんなことはあとの処理だ。君は血液型を調べるだけでよいのだ」

 

  権力には逆らえず、病院の助手ひとりと同行した。ムラトは、ほっそりとした学究肌だが、

 約15人の囚人と向き合うことになった。殆どが屈強な20代後半のウイグル人男性だ

 

 第1番目の囚人が座り、注射針を見て、訴えるように言った。

 

  「あんたは俺と同じウイグル人だ。なんで俺を傷つけようとするんだ」

 

  「なにも傷つけようとはしない。血を採取するのだ」

 

  “血”という言葉ですべてが崩壊してしまった。囚人たちはわめきながら脱兎の

 ごとく逃げ出そうとした。

 

 守衛は大声で叫びながら彼らを列に押し戻そうとした。最初の囚人は「俺は無実だ!」

 と叫んだが、中国人守衛は彼の首をつかみ、強く抑え込んでしまった

 

  「君らの健康のためなんだよ」

 

  ムラトは落ち着いてこう言ったものの、病院職員らは自分がそれほど憐れんではい

  ないと見ているな、とすぐ気付いたものだ。

 

  「君の健康のためなのだ」

 

  と、何回も血を抜き取る度に繰り返していた。

 

   病院に戻ると教官に訊ねた。

 

  「あの囚人たちは全部死刑囚ですか?」

 

  「そのとおりだ。それ以上のことをきくな、やつらは悪人どもだ、国賊だ」

 

  ムラトは自ら問い続けた。時を経るにつれ、やり方を学んだ。

 一旦血液型が判れば次に“組織適合”に進むものだ。

 

 政治犯は胸の右あたりに弾丸を受ける。教官は処刑場へ出向いて血液型が

 合致するかどうか調べるのだ。

 政府高官たちは臓器をもらい、ベッドから起き、そして退院するのだった。

 

   6カ月後、グルジャ市勤務一周年にあたるが、新しく5人の高官が入院してきた。

 教官はムラトに新しい血液を採取しに行くよう命じた。今回の政治犯血液採取は

 通常の業務だと聞かされた。輸出向けだ。しかも大量だ。陸軍病院はその先導役

 なのだ。1999年の年初には政治犯の血液採取を聞くことはなくなった。恐らくそれ

 で終了したのだろう、と思った。

 

  だが、新彊の惨劇は広がって行ったのだ。1999年末には、そのウィグル人弾圧

 事件さえ、毛沢東以来の中国治安当局の最大級弾圧活動で目立たなくなってしまう

 ほどだ。

 

 たとえば、

 

 法輪功の排除。私の推定では300万人に昇る法輪功のメンバーが中国の

 “更生システム”を経験したものと思われる。

 

 2008年北京オリンピック以前にはおよそ65,000人の臓器が摘出されただろう、

 心臓がまだ脈打っているにも関わらず、だ。

 

 数こそ小さいがキリスト教信者やチベット人も同様の運命をたどったものと思われる。

 

  ホロコースト基準から見れば、些細な数字かも知れない。だが、明確にしておこう。

  中国は究極的な解決の土地ではない。ご都合主義的な解決の土地なのだ。中には、

 中国の医療機構がすでに明白な事実を認めたからその最近の声明を注視し、進展を

 見るべきだ、という向きもあるが、中国の医療環境はそれほど倫理的とはいえない。

 

 中国人が儲けの大きい医薬や医薬テスト業界にうまみのある臓器摘出行為を最終的

 に放棄するだろう―あるいは既に放棄したかも知れない―ということに外国人投資家

 は疑念を抱いているのだ。そんな聞こえのいいお話には問題がつきまとう。

 つい一年前の報告では、中国人は新彊ウイグル虐殺を放棄していないというものだ

 

  2009年7月、ウルムチでウィグル族と漢族との間で血生臭い暴動が街路で発生した。

 当局はその首都に大部隊を集中させ、西側ジャーナリストを放逐し、インターネットを閉鎖し、

 6カ月以上かけて静かに、そして夜間に何千というウィグル人男子を検挙したのである。

 

 拘束されたウィグル人から漏れ出した情報によると、何人かは臓器の健康状態だけ

 を調べるための身体検査を受けたという。

 

 この情報は曖昧かも知れないが 矛盾はないし、話にはまとまりがある。急速に超大国へとの

 し上がってくる中国は、単に人権侵害を犯してきた―周知の事実だ―のみならず、10年以上

 にわたり、人間に関する深い知識という最も信頼される領域をねじ曲げて、

 

 “人権”という法的語法の中で、狙いを定めた特定のグループを排除することへと転換

 させているのだ。

 

  ニジャトはスイスのヌーシャテルにある難民収容所におり、今も亡命先を提供してくれる国

 を待っている。彼は私にも、そして他の人にも告白したのだ。しかし、中国をとっちめてやろう

 としない世界にあっては、どんな国も彼の告白を聴こうともしない

 

 エンバーは下院主催の中国人権問題に関する某委員会へ出向いたことがある。

 そこで議員が質問を開始したときエンバーは起立し、初めて殺人について語り始めた。

 私はノートをとったが、英国議員やそのスタッフの誰ひとりとして彼の言い分に気をかけ

 ようともしなかったのだ。

 

  この意味するところは明快だ。ウイグル族の自己決断だけで事足りるのだ。

 

 1300万人しかいないウィグル族は数のうちにも入らない。

 しかし、彼らは必死なのだ。彼らは闘うだろう。

 

 戦争になるかも知れない。その日、世界中の外交官たちが北京政府との対話を求めるならば、

 願わくばそれぞれの国が自国の成り立ちやその良心に注意を払われたい。私自身について

 言えば、もし私のユダヤ響きの名前が何かを語るとすれば、こうである。“死者は決して仕返

 しなどはできないけれど、どんな人も致命的に搾取されることは受け入れないのだ。”

 

                                                                                                  訳:外山昭平

 

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